PBWめも
記憶に沈む
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コツ、コツと静かに響く足音。 長く電球の交換がされていないのか不規則に点滅する灯り。 それは奥に進むにつれて微弱になり、中頃からは完全に途絶えていた。 今にも崩れそうな古アパートのどこか冷たい空気が支配する仄暗い廊下を、亜麻色の髪をふわりと揺らしながら、少女は躊躇う事無く歩み続け。 やがてたどり着いた突き当たり。遠くの電気灯で薄ぼんやりと光を反射する冷たいドアノブをそっと握り締め、ゆっくりと重い扉を開けた。 「ただいま……」 か細い声に返る言葉は無く、智夢を迎えるのは変わらぬ暗闇と長い静寂のみ。 いや、微かになにかがうごめく気配はしたか。 明かりを付ければきっと逃げてしまう、それもいつもの事。 このアパートは本来3階建て。 そしてこの部屋は、存在しない筈の409号室。 404号室を巣にして発生した存在しない筈のこの階に、生者は自分だけ。 他の部屋の住人は全てが魂だけの存在、いわゆる霊達だ。 霊相手に不法侵入など問えよう筈も無い。むしろ家賃不要と人間から離れて暮らせるのをいい事に、彼らの縄張りに不法侵入しているのがまさしく自分なのだから。 依頼に行けばお給金は貰えるし、いい加減ちゃんとしたところに引っ越してもいいのだけれど、住み慣れてしまえば思いのほか居心地よくなってしまったのだから仕方ない。 居候の身として気は遣うけれど、人間に怯えて過ごすよりずっといい。 こんな生活にももう慣れた。 あの時。 アリスラビリンスに落とされた後、猟兵として覚醒したあの瞬間から。 結局室内の電気はつける事も無く、抱きしめていたテディベア――リアムをリビングのソファに座らせて、シャワーを浴びるべく風呂場へと向かう。 いつのまにか排水溝に絡みつく髪の毛も、壁に残る血の手形も、今日は呪詛の気配は感じない。 先日の浄化が少なからず効いているのか害を成すつもりも無さそうなので、お湯が詰まらない程度であればそのまま好きにさせておく。 どうせ気が済んだら勝手に消えるのだから。 冷えた体を暖かな湯が包み込んでいく。 依頼で負った傷にほんの少し沁みたけれど、あの頃に比べればずっと。 肉体的にも精神的にも遥かにマシだ。 あの世界は、地獄だったから。 『ほぉら、チビなあんたのために牛乳あげるわよ。しっかり飲みなさい』 『楽しいゲームの時間よ。 今日は目隠しして当ててもらいましょうか。 誰があんたを突き落としたか』 脳裏にこびり付いて離れないかつての地獄。 あの頃は学校中が敵だった。 先生だって知っているくせに、保身のために見て見ぬふり。 変な噂を流された時は、家から出るのが、朝が来るのが怖かった。 もう頭から牛乳を被せられる事も、階段から突き落とされる事も無い。 奪われる事も、壊される事も、痣が増える事も。 自由に歩き回ってもなにも言われない。 食事だって美味しいものが食べられる。 当たり前の事がこんなにも幸せで、朝に怯える事も無くなった。 今でも時々悪口も聞こえるし、不躾な視線も感じるけれど。 全部自分の心に根付いた恐怖心が生み出すものってわかってるから。 親切にしてくれる人もいる。だから以前のように迷う事も少なくなった。 そういう意味では、こちらに飛ばされた事は転機とも言えるのかもしれない。 地獄から救い出してくれた。 あの頃は一つの脅威でしか無かった霊達も使役できるまでになって。 朝の光も素直に綺麗だと思えるようになった。 気がかりなのは、今でも一人故郷で私を待っているだろう、母の事くらい。 今なら世界を渡って会いに行く事も出来るのかもしれないけど。 どうしても……今はまだどうしても、勇気が出なかった。 母の事は好きだけど、帰って来いと、そう言われるのが怖かった。 体を拭いて、柔らかい布に袖を通す。 お気に入りの桜色のネグリジェは最後の誕生日に母がくれた大切なもの。 何度も着まわしたそれはよれてボロボロになりかけているけれど、これを買ってくれた母の想いを考えたら、買い替えるなんて事は考えられなかった。 仄かな柔軟剤の香りは、母が愛用していたのと同じもの。 「お待たせ、リアム。一緒に寝よう」 リビングに戻りリアムを抱き上げなおすと、ふっと周囲の気配が薄らいだ気がした。 いつもそう。リアムと一緒にいる時は、不思議と悪霊に襲われる事も無い。 時折例外もあるけれど、気づいた時には全て消えているのだ。 まるで、なにかに祓われたかのように。 『なんだ智夢、まだ泣いてるのか。 折角の誕生日なのに、涙で終わるのはもったいないぞー』 『ぅ、ひっく……だって……だってぇ……』 『まったく、しょうがないなぁ。コンニチハ智夢チャン、ドウシテ泣イテルノ? 僕、智夢チャンノ笑ッタ顔ガ見タイナ!』 『ぐすっ……クマさん……? なんで……?』 『これはパパから智夢への誕生日プレゼントだ。可愛いお友達だろ? 智夢が寂しくないようにと思ってな。大切にするんだぞ』 誕生日に父がくれた、ふわふわで可愛いテディベア。 それからすぐに父はいなくなってしまったけれど、この子はいつも傍にいてくれた。 抱きしめると胸が温かくなって、勇気が湧いてくるようで。 まるで、父がすぐ傍で、私を見ていてくれる気がして。 私室の布団に潜り、そっとリアムと向かい合った。 戦いの時に輝く目は、今は黒く落ち着いている。 「お父さん、私……ちゃんと、強くなれてるかな。優しくなれてるかな」 それは父の口癖でもあった。 いじめに負けない強い子になれるように。 誰かを気遣える優しい子であるように。 人の価値は力で決まるんじゃない、いつだって心が綺麗な方が勝つんだ。 智夢の心はキラキラだから、何があってもきっと大丈夫。 泣き虫だった私にそう言って、どんな時も信じてくれた。 父だけがいつも味方でいてくれた。 あの日、私を庇って亡くなった父。 私にいつも望んでいたように、正義感が強くて優しかった父。 霊はいつでも見えるのに、あの人にだけは一度も出会えたことが無い。 けれどだからこそ、いつも守ってくれるリアムにその姿が重なって見えて。 もしかしたら。そう思ってしまって。 父が……リアムが傍にいてくれたから、今日まで生きてこれた。 一人でも戦えた。 「いつもありがとう、リアム」 ふわふわとした体を包み込むように抱きしめる。 また天井から、入り口から、かさりと音がしたけれど。 このまま意識を飛ばしてしまっても、きっと無事に朝を迎えられる。 リアムが一緒だから。護ってくれるから。 「ありがとう……お父さん」 ふわり、ふわりと、家族団らん、幼い頃の記憶に沈む。 夢と現の狭間の幸せ。 瞼を閉じる直前、ほんの一瞬、リアムの口元が微笑んだような気がした。
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