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異端審問官ニレ:猟兵になるまでの経歴
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『わたしは咎のうちに産み落とされ 母がわたしを身ごもったときも わたしは罪のうちにあったのです。』 ──旧約聖書 詩編 51篇5節 処刑台に向かうことが生き残る唯一の術だった。背中からは吸血鬼が迫っていたからだ。 「……わかりました。受け入れます。私と、私の妻。そしてこの子にも洗礼を」 後にダークセイヴァーと呼ばれることになる、とある世界。とある国。宗教によって民を纏め、教義によって繁栄したその国家は、突如世界に現れた異端の存在に対し徹底抗戦の姿勢を取った。この世界の住人は与り知らぬ事だが、その異端こそ猟兵達がオブリビオンと呼称する敵。過去より出でて世界そのものを侵食する、今を生きる全生命体の天敵である。聖戦の名の元、数十年に渡る戦争が起こった。そして、それもまた過去となった。 そんな過去の話である。教義の国は、長年オブリビオンに抵抗を続けられるほど強大な軍事力を持っていた。生きる為、安心の為、敵に村を追われた難民達が、連日連夜その門を叩く。国は元々余所者を嫌う宗教性を持っており、平時でさえ移民にはいい顔をしない。その上今は戦時である。異邦人を養う余裕などどこを探しても見当たらない。 それでも行き場の無い難民が保護を受けるためには、いくつかの条件があった。 1つ。疫病を持たないこと。 2つ。国教に改宗すること。 3つ。対異端の業、洗礼聖紋の実験台となること。 吸血鬼に村を蹂躙され、ようやく国まで逃げ延びたある夫婦。彼らには赤子がいた。まだ母親の腹の中、何も知らずに眠る胎児がいた。3つ目の条件の対象は、まだ生まれてもいないその命も含まれていた。 家族揃ってオブリビオンに食われるよりはいい。最も子が生き残る確率が高い。ただ自分が助かりたい。2人がどう考えていたかは今更知るよしもない。結果として数ヶ月後、難民の夫婦は教会所属の助産師と研究員に見守られて出産を迎えた。 産まれた赤子は、夫婦が出会った故郷の大樹から名を取ってニレと名付けられた。ニレの両親が命を落としたのは、その6日後のことである。 遺体の全身に刻まれている黒い刺青。洗礼聖紋は教会による対異端研究の結晶だ。数秘術における「生命の樹」を肉体へ描画し顕現させることで、ただの人間をオブリビオンに匹敵する蛮力に変える。正しくこの聖戦の切り札。神の祝福と洗礼の御業である。 だが、同時にその力はヒトの体の限界を大きく越えており、普通に使えば肉体は崩壊、死に至る。人体実験による改良の末組み込まれた細胞分裂の活性化/肉体再生の術式が自壊を補うものの、使用者は常に体を壊しては直される激痛に苛まれることになる。たとえ神の御業であっても、過ぎた力の代償は大きい。 夫婦は試製9号洗礼聖紋を刻まれた。その再生術式の欠陥のため、肉体が耐えられずに無惨な死を遂げた。遺体は同じような死者達と共に共同墓地に葬られた。墓標に名は無く、弔いも無かった。 * さて、生まれる前から教会に命を握られた赤子──ニレが最初に発した言葉は、"痛い"だったという。 ニレに刻まれた14号洗礼聖紋。数秘術におけるゲマトリアとノタリコンに従い再解釈したことでより洗練され、乳幼児期から少しずつ刻んで体を慣らすと共に、肉体の成長により皮膚表面の刺青が伸長し変化することを利用して何重にも意味を組み込んである逸品だ。 既に多くの犠牲を払い、戦線は日に日に後退している。追い詰められた教会は、更に文字通り肉体そのものを武器にするという狂気の発想に至った。 洗礼はそれを受けた者の肉体に対して作用する。つまり、少しずつ骨を削り、肉を集め、歯の刃で形作られた武器にも洗礼は効果を及ぼすはずだ。 その実証実験台になった無数の孤児達の中にニレはいた。ある日は皮を剥がされた。ある日は倒れるまで血を抜かれた。ある日は生えたばかりの乳歯を全て抜かれた。麻酔は無かった。薬は全て前線に回されていたからだ。 肺や心臓、腎臓などを除いた直接運動機能に影響しない内臓は抜かれた。修道士には不要であるとし生殖器が摘出された。武装の1つとして爪は爪母基ごと両手両足の20全てを移植された。 施術のない日は、いかにこの国の教義が素晴らしいか、いかに異端が穢らわしく邪悪であるかを洗脳同然に刷り込まれた。 肉体、思想、幸福。教会は少女からあらゆるものを奪った。かわりに教会が与えたのは、わずかばかりの祈りの言葉。それにすがることで、ニレは辛うじて正気を保つことができた。できてしまった。 濁った水を歯の無い口に含み、硬いパンがふやけるのを待ちながら、少女は考え続ける。 どうして自分には両親がいないのだろう。 どうして自分は異邦人なのだろう。 どうして自分は除け者にされるのだろう。 細胞を、筋肉を、骨を切り取られながら、少女は考え続ける。 どうして痛いのだろう。 どうして苦しいのに産まれてきたのだろう。 痛くて痛くて仕方がないのに、産まれてから幸せだったことなんてひとつだって無かったのに、どうしてまだ生きなければならないのだろう。 ヒトの肉体の限界を越えた洗礼聖紋の痛みにのたうち回りながら、少女はいまだ見たこともない異端への憎悪をつのらせる。 それは異端のせいだ。 穢らわしい異端のせいだ。 教義が全てに理由をくれた。 それは使命があるからだ。 全ての異端を滅ぼす使命があるからだ。 13歳になったころ、ニレは痛みを感じなくなった。あらゆる疑問を持つことをやめた。洗礼に適応した結果であった。 * 彼女が成長している間にも戦いは続いていた。彼女が適応できるまでの間にも実験は続けられていた。 戦争はあまりにも多くの死体を作りすぎた。 死者の氾濫はついに共同墓地を埋め尽くす。 伝統的な土葬では土地が足りない。ならば遺体を掘り起こして燃やし、浄化の炎により弔おう。そしてまた死者を埋めよう。 つまり、教会の誰かが墓暴きの禁忌を犯さねばならない──そういった面倒事は、決まってニレの仕事であった。 瞳の色が違う。両親に売られた。元難民。集団の中に少しでも自分達と異なる者がいれば、端に避けるのが人間というものだ。 ニレは生まれてからずっと心に疎外感を抱いていた。同時に、生まれて間もなく自身の境遇を諦めてもいた。わたしの居場所はここにはない。わたしの家族はここにはいない。それでもここに居させてもらっているのだから、拒んではならない。 名も無き死体を掘り返す中、"それ"はどんなに崩れていようと"それ"とわかった。 初めて見た両親の顔は、地獄の苦痛に歪んで腐敗し、眼孔からは蛆が湧いていた。 他の死体と同じように、切り刻んで火にくべた。灰を集めて撒いた。新しい、名前のついた死体を埋め直した。 教義はこう教えた。審判の日には墓地から全ての死者が甦り、善き信徒だけが永遠の命を与えられ、神と共に世界を楽園に導く。 だから、審判の日より前に過去から復活した異端は罪人なのだ。教義の正統性を脅かす異端の存在は絶対に認められない。 だから、罪人の死体は燃やすのだ。二度とこの世界に甦れないように。楽園に異端は必要ない。 両親は、自分は、異端なのだろう。 余所者だから、『違う』から、罪人なのだろう。 自分の中で何かが軋み、悲鳴をあげているはずなのに、自分でも不思議なほど何も感じることができなかった。 最後に残った心ごと、冷たい墓の下に埋葬した。 * 戦況は悪化していた。 予定よりも数年早くニレは戦場へ行くことになった。本来は乳歯と永久歯合わせ54本で完成するはずの生体武器は、彼女の歯が生え揃うのを待たずにまだ乳歯の20本のみ。週ごとのみことばと設計図に従って彫り込まれる洗礼聖紋も、未だ完全ではない。 だが状況が待つ選択肢を許さない。司教から異端審問官としての最終試験が課せられる。それが彼女にとっての初めての実戦だった。 この国の中に異端が紛れ込んでいる。 吸血鬼が人間の女性に産ませた子だ。母親が拷問の末にその存在を吐いた。なんと穢らわしい。その女は処刑済だ。 異端の縁者、異端に加担した者、異端に屈した者。全て異端そのものと同罪である。 異端の子は異端だ。執行せよ。 ニレはただ首肯した。ニレにはすでにそれを行える程の力があった。与えられた情報を元に痕跡を辿る。真夜中の路地裏、降りしきる雨の中、彼女は対象の異端を追い詰めた。吸血鬼は流水を渡れない。極めて容易いことだった。 その半吸血鬼/ダンピールの子供は、目の前の少女に恐怖していた。 異様としか形容できない武器を使い、人外である自分を超える力を持ち、攻撃を受けても眉ひとつ動かさない。何より、全く話が通じない。 ニレは鞭のように伸ばした鋸で異端を捕縛した。訓練により、彼女は強化された生体武器を自分の体のように──自分の体であることに間違いないのだが──操れるようになっていた。実証実験は完全な形で成功した。 苦痛で洗いざらい喋らせた。どうすれば痛みを与えつつも対象を生かしておけるか、どうすれば質問に答える以外の正常な精神を破壊できるか、ニレはよく知っていた。自分自身が散々経験したことだったからだ。 人間の母親に育てられたそのダンピールは血を吸ったことがない。人も殺していない。真実しか喋れないように蹂躙したのだから、それは確かに事実だとわかった。しかし判決は最初から決まっていた。死刑を執行した。 「よくやった。異端を滅ぼし、世界に正常なる安寧が訪れるまで、審問と処刑の代行を命ず」 審問官の証である聖釘のレプリカと、"スコラスチカ"の洗礼名を賜った。 疑いがあった。迷いがあった。しかし訓練された思考はそれらを完全に閉め出していた。彼女には異端を滅ぼし世界を救う使命があった。使命だけが自分の正しさを肯定してくれる。使命より優先されることはない。だから、その言葉を聞いても理解できなかった。 * 「聖戦は終わった」 上層部の司教達は自らの保身を優先し、吸血鬼との和平を宣言した。 ──事実上の降伏である。 この国は、この世界は、異端に敗北した。 ニレは茫然として崩れ落ち、ただ座りこんでいた。意味がわからない。わかりたくない。自分にはもうこれしか残っていない。まだ何も成し遂げていない。 埋葬した感情が、蛆虫のように次々と這い出してくる。皮膚を突き破り、棺の蓋を開け、憎悪が溢れる。 何のために死んだというのか? 同じ実験体達は、帰ってこなかった兵士は、パンをくれたシスターは、世話を焼いてくれた老婆は、あのダンピールの子は、両親は、自分の、心は──何のために? 「聞いているのか?お前の役目は終わったのだ。聖釘を返還せよ」 司教の声にやっと反応したニレは、虚ろな目のままふらふらと立ち上がる。 何のために痛みに耐えてきたのか。何のために生きてきたのか。その答えはひとつしかなかった。それ以外を知らなかった。 切り飛ばした司教の腕が宙を舞う。 「いいえ……わたしは、審問と処刑の代行を続ける」 鮮血と悲鳴が瞬いた。 そう、続ける。 続けるのだ。 この身が灰に還るまで。 「わたしの役目はまだ終わっていない。現に、滅ぼすべき罪は目の前にある」 異端の縁者、異端に加担した者、異端に屈した者。全て異端そのものと同罪である──下腹部を斬り開かれながらそう教わった。 だから、あのダンピールを殺したのだ。 だから、異端に降伏した国をも殺すのだ。 ニレの精神は狂気に囚われていた。ヒトも獣もオブリビオンも、目についたものは全て拷問にかけた。 全て喋らせた。全て有罪だった。罪を認めさせ、懺悔と命乞いを聞き、刑を執行した。遺体は全て切り刻んで火にくべた。弔いの祈りを捧げた。両親と同じように。 ニレは燃える教会を前に倒れこみ、死んだように眠った。目が覚めればまた異端を狩った。拷問した。灰にした。 来る日も来る日も。 少女の異常性は大量の遺灰とともに一帯に広がり、ただでさえ戦争で疲弊し切っていた国はまもなくその機能を停止した。 亡国の大地には白い煙が霧のように立ち込め、灰を伴って現れる異端審問官の惨聞は領主の吸血鬼すら恐れさせたという。 人を超えた能力を持ち、ユーベルコードを使い、他の生命を脅かす──猟兵の出番だ。 * ニレは極めて狭い価値観の中で生きてきた。 ある世界のある国のある教義が全てだった。 故に、猟兵達の戦いは彼女の理解を大きく超えていた。キマイラや機械仕掛け、高度な魔法の集中攻撃にニレは全く対応できず、なす術なく地を這った。 どんなに外傷を負っても、洗礼聖紋の再生能力が少女を生かし続けた。どんなに戦力差があっても、少女は怨詛と祈りの言葉を吐き続けた。 それでも、連日連夜異端と戦い続けた体は既に限界だった。罪には罰を。彼女は狂乱に任せ罪を犯しすぎた。 さて、困ったのは猟兵達だった。この少女はオブリビオンではないし、今のところ猟兵でもない。もちろん野放しにすることはできない。2つの勢力にとって彼女は異端としか言いようがないのだ。何よりあの状態では、助けたところでもうどうしようもないだろう。いっそ──彼らは顔を見合せ、頷いた。 これが精一杯の慈悲。猟兵の1人が介錯の一撃を放ち── ニレは生まれて初めて何の痛みも無い安らかな眠りの中にいた。罪には罰を、そして罰の後には赦しと救いを。自分にも救いが訪れたのだろう。 否。 否だ。 自分の使命はまだ終わっていない。続けなければ、完遂しなければ。 わたしが救われることなどあってはならない。 * ──ニレは不思議な宇宙船の中で目を覚ました。 猟兵の姿を認めるとまた暴れ出したが、艦内の暴力を認めないサイボーグにより強い鎮静剤を打たれ制圧──この世界のあらましについて説明を受けた。 ニレの生きてきた世界の他に、20を超える別世界が存在する事。 異端としてきた敵は、過去より出でて未来を侵食する驚異である事。 彼ら猟兵は、そのオブリビオンを倒し世界を救う為に各世界から集まった者達である事。 狂気に駆られたニレは、オブリビオンだと思われて猟兵に滅ぼされかけ、寸前でこの船が拉致したらしい事。 自分にも猟兵として戦う力がある事。 「…なんでもいい」 一度死にかけたせいか、鎮静剤のせいか、尺度の違い過ぎる話を聞かされたせいか。 一時的な狂気に陥っていたニレは、不幸にも冷静さを取り戻してしまった。同時に自分のした事を酷く後悔し、そうなった原因を思い出し、とっくに枯れたはずの涙が溢れた。 唯一よすがとしていた信仰と使命を否定され、何の罪もない人々を巻き込み大勢殺した挙げ句、異端狩りの自分が異端として倒された。もはや自分には何も残っていない。 「……痛い」 久しく忘れていた痛みが彼女を苛み── 声を聞いた。 慰めの言葉を掛けられたのは生まれて初めてだった。 見上げれば、心配そうな目でこちらを見る、顔、顔、顔。誰一人として同じ姿の者はおらず、誰一人としてまともな者はいなかった。みんな異端だ。にもかかわらず、誰もそれを気にすることなく皆一様に涙を流す自分を見ている。 彼らのことは知らない。世界のことはわからない。だが、自分と彼らは同じ存在──猟兵だという確信があった。泣き続ける少女は名を聞かれ、しかし明瞭な声で答える。 「異端審問官、ニレ・スコラスチカ。わたしの使命は異端を滅ぼすこと、世界を正常なる安寧に導くこと…その日が来るまで、わたしは審問と処刑の代行を続ける」 痛みと共に、ずっと心に感じていた疎外感が無くなっていた。ここが、やっと辿り着いた"わたし"の居場所なのかもしれない。 「よろしく」 異端だらけの仲間達と共に、異端の少女の贖罪の戦いが始まった瞬間だった。
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