PBWめも
怪文書1
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【登場人物】 ・赤井薫(アカイ・カオル)…人間。20歳女。 ・レッド…アカイ・グランドマスターを自称するヒーローマスク。24歳男。 ※※※※ 私はたくさん寝る。 年々睡眠時間が増していて、最近は月の半分を眠って過ごし、その間も私の相棒は起きている。 3年前にわたしは人格を持つガスマスクを拾った。 レッド・グランドマスターとかいう変な名前をしていて、こいつは私の身体に寄生し、曲を作るのだ。 たまに変な世界で戦ったりもするが、だいたいは部屋の中でPCや機材を相手に一人で歌もないインスト曲ばかり作っている。 私の身体と時間を使いやがって、なんて思うことは無くて(本当はかなり思ってはいるが)私は事故にあったせいで本来であれば五体満足に動かせない体なのだ。 だが、こいつを顔に付けると身体は動く。外しても動く。しばらくの間は。 寄生する相手を生かすため、諸々を調整する影響だとかなんとかだが、この際詳細はいい。 重要なのは十代の一番重要だった時代にべッドに縛り付けられていた私の身体が、今は自由に動くという事。 自分の人生を思い通りに生きなければ私は死んでるのと同じだ。 だから、どちらかといえば私が寄生しているのに近い。本来は死に体である私の身体を提供する事で、たまに生きた人間として振舞える。 そういえば昔見たテレビ番組で自分の身体に寄生虫を宿す事で免疫機能を獲得する鳥の話をしていたが、今思えば私はアレと同じだ。 自己紹介をしていなかった。 私の名前は赤井薫、特になんでもない死にかけた一般人だ。 ※※※※ 急速に水中から浮上する感覚だけあって、気が付くと私は目覚めている。 身体は動かない。全身麻酔をしているような感覚の無さだけが「有る」。 見えるのはデスクトップ画面に映る見慣れた景色で、MIDIシーケンスを左から右へゆっくりと流れるバーに合わせて、 左右のモニタースピーカーからシンセサイザーの音が流れてくる。 「起きた?」 聞かなくても分かるだろう。 私の声帯を震わせて出てきた声は男のものだった。レッド・グランドマスター。私の身体を使って今こうしてトラックメイクに励む彼は私と違って殆ど眠らない。 文字通りの四六時中、私の身体を酷使して作曲に励んでいるのがよく分かる。なんとなくの気怠さが私に伝わってくる。 寄生してるくせにこいつは遠慮がない。 今は別人格に支配されているとはいえ、私の身体だから全く分からないわけではない。ただ、普段のはっきりとした身体感覚とは違って、 温度や空気感のような形の無いものを微弱なセンサーで読み取っているような感じだ。 「もう少しでひと段落つくから、少し待ってて。」 私は返事もせずまた意識を水底にもっていく。ちょっとずつ水に浸らせていくように、私の中身が暗闇でいっぱいになり、やがて眠った。 目覚めると私の部屋だった。 さっきとは違う、意識ははっきりとした輪郭をもっていて、全てが何らかの意味を持っているかのようにクッキリと鮮やかだった。 身体はベッドの上に横たわっていて、枕元にはガスマスクが…レッド・グランドマスターが鎮座していた。 そのまま私は息を吸い込んで、吐く。埃っぽい空気が肺を満たし、数日前の死んだような空気を押し出していった。 羽毛布団にくるまりながら大きく伸びをし、両手をこすり合わせると暖かくなった。 いつも目覚めた後は身体の感覚が鋭利になったようで、色々なものが新鮮だ。 最近ちょっとだけ分かったのは、赤ん坊が泣いてしまう理由はこの世界に敷き詰められている色んな感覚に恐れているからという事。 ひとつひとつの経験や感覚が、新鮮で楽しく、故に派手で怖くなる。 自分と壁一枚隔てた向こうにあった物と急に無関係でいられなくなる恐怖。その上に意味や文脈があって、私たちはそれから逃げる事が出来ない。 寝ている時の私と、母親の中の赤ん坊は人生とは無関係だから、そういった物がとりわけ怖いのだろう。 私はゆっくりと上半身を起こし、着ている服を確認する。最後レッドを顔に着けた時と同じ服だ。 別に変な臭いも数日着た時のよれた感触もない。 変な話だがレッドを顔に着けると私の身体の情報がレッド用の物に変換されるらしい。 つまり言い方はアレだが、変身するのだ。 「レコードの回転数を45から33にした後録音しなおして、WAVをMP3に変換するのと近い」 とその時に説明を受けたが、まぁ要するにベースは同じだが色々変わってしまうようだった。 実際私の身体はレッド・グランドマスターが寄生すると体が男性のものになるし、着ている服も変わる。 で、レッドを顔から外すと着ける直前の私に戻るようだ。服や身に着けているもの全てもだ。 なんとも都合の良い話だが、そもそも今こうして五体満足なのが都合が良い話だった。 とにかく何でもいいのだ。 何でもいいが…私のお腹がぐぅーと間抜けな音がする。 「…また数日食わなかったやろ、あんた」 レッドは何も言わない。たぶん寝ているのだろう。私は返事をしない、鎮座するガスマスクにデコピンをお見舞いする。 身体を変換する癖に変な所は共有していて、体調もそうだ。レッドが風邪をひいて、私になると私も風邪をひく。 だから彼にはなんとしても最低限は健康に過ごしてもらいたい所だが、元が人間じゃないせいか、そこら辺のコントロールが下手なようだ。 寝食がその最たるもので、一時期食べた物を毎日記録して欲しい、と頼んだが1ヶ月続けるとやめてしまう。 クソ迷惑だが、この体から出て行けなんて到底言えはしない。 私はすごすごと冷蔵庫を開け、空腹を満たそうとするが、そこには何も無かった。 見事に何もない、このまま電化製品店に売りに出しても問題は無いだろう。 たいして期待せず食品棚を開けてみても期待通りに何も無かった。 ないない尽くしだ。私は舌打ちをする。 これから服を着てコンビニまで歩いていくのも怠かった。 私達の部屋は9Fのアパートにあって、そこから駅前のコンビニまで歩いて5~10分ぐらいだろうか。 目覚めたての私にとっては大冒険もいいところだ。身体に意識が慣れるまでしばらくかかる。 となると、とれる手段は1つしか無いだろう。 もう一度、大きく舌打ちをするが、扉の向こうのベッド上のガスマスクはうんともすんとも言わなかった。狸寝入りだろうか? 私たちのアパートは玄関を開けると細長い廊下とキッチンがあり、正面向かいの扉を開けると十六畳のバカでかいワンルームに繋がる。 ワンルームを本棚と機材スペース、加えてレコーディング用の防音室で壁を作り、無理やりスペースを区切って2部屋のようにしている。 私がキッチンからワンルームに繋がる扉を開けて、右側…つまりはレッドの部屋側へ向かう。左側が私の部屋だが、そこに用は無い。 レッドの部屋はだいたいが機材とレコードで埋め尽くされている。その隙間を縫うように、本やCD、服や靴が入ったカラーボックスが並べられているが、 中でも異彩を放つのは銀色の扉だ。 扉といっても一般的なドアではない。何の材質かは分からないが、硬質で銀色の光沢を放つ笑ってしまうほどSFチックな自動ドアだ。 私はドアの前で少し逡巡した後に手を触れると、ドアは音もなく横にスライドした。 ドアの向こうはリノウムのような光沢を放つ無機質な白い通路が続いていた。 私は通路へ、芋煮艇の通路へと足を踏み入れた。 私の背後で音もなくドアが閉まり、私をこの空間に置き去りにした。 芋煮艇は宇宙船だ。そういう知識だけはあるが、詳細はよく知らないし、私が知らないからおそらくレッドもよくは分かって無いのだろう。 記憶は共有しないが知識は共有する。わたしは数度しか足を運んでいない芋煮艇を勝手知ったる顔で歩ている。 心臓が大きく音をたてる。ここは地球ではないからだ。 私は、私がいた、私とレッドの部屋の事が恋しくなる。UDCアースの東京都板橋区の坂の上にあるマンションのホコリっぽい空気が途端に懐かしく思えた。 ここで吸う空気には何もなかった。まるで全てがデタラメな程に作られ整備された空間だった。 ここで誰かに会ったら、私はどうするのだろうか。 どうも、アカイ・グランドマスターです、なんて言うつもりはさらさら無いが、いちいち理由を説明するのも億劫だし、 ここに集まっているのは猟兵たちだ。 ただの人間相手でのコミュニケーションすら満足にこなせてるとは言いづらい私が、人外魔境の人々と会って話すと考えただけで眩暈がする。 「確か、ここを右に…」 ホールのように天井が高く、広い一室にでた。 ダイニングと呼ばれている食堂だ。普段は猟兵達で賑わっているが、今はありがたいことに私しかいない。 このタイミングしか無いだろう。 急ぎ足でダイニングに並べられた機械の一つを操作する。実感は無いが、知識として分かるのはこれを操作する事で食べ物が出てくるという事だ。 ボタンを押し、あるいはレバーを動かし、私はコーンフレークを出してくれるよう謎の機械にインプットする。 ややあってガチャガチャと音を鳴らしながら、機械が動き出して私は安心する。良かった、少なくとも餓死は免れたようだ。 突然、通路から誰かのガヤガヤとした声が響いた。 まずい、と私の身体は硬直する。瞬時に私の頭の中によぎるのは、これまでレッドが会ったことのある芋煮艇の猟兵達だったが、 何かあった時に彼らは私を助けてくれるだろうか? 私はレッド…レッドが名乗るアカイ・グランドマスターではないのに? 物陰に隠れるように、私は身体を機械と機械の狭い隙間に押し込んだ。 徐々に声は近づき、大きくなってくる。 機械の狭間で私は静かに絶望するしかない。というか、何をやっているのだろうか、私は。 人目を避けて、誰にも知られずに食べ物だけ盗みとっていくなんて、ここは私の居場所ではないのに。 あぁ、そうか、反射的に彼らから隠れる事で、私は色んな責任から逃げたのだ。 自分自身の説明とか、人間関係とか、この艦の事とか、レッドの事とか。 私は全てから今逃げて、この冷たい棺桶みたいな場所にいる。 そう思うと途端に自嘲がこみあげてくる、私のしたい事はこれだったんだろうか? あの日、彼が、私が自分で選んで、何処かに行きたいと思った、その行き先がこれか? 人に怯え、責任に怯え、ただ眠るだけの人生が? しばらくすると声は遠ざかっていった。 私は機械から吐き出された、器に盛られたコーンフレークを手に、自分の部屋に一人で戻っていった。 ※※※※ 夕陽が燃えていた。じきに夜になるだろう。 「そんな事しなくても会って挨拶でもすればよかったのに。」 目が覚めたレッドは何てことない口調でそんな事をケロリと言ってのけた。 言って、といっても声に出しているわけでは無い。 テレパシーのように私に思念を飛ばしているだけだが、人体は不思議なものでたまにレッドの声が聞こえると錯覚してしまう。 「あんただってどうせ、せぇへんのやろ、分かるでそれぐらい。」 私はジロリと私の真横で座布団の上に乗せられたガスマスクを睨んだ。レッドはそれに答えなかった。 ガスマスクの黒い無機質な表皮がただ夕陽を反射してテラテラと光っているのが笑っているように思えた。 私とレッドはアパートのベランダにビニールシートを敷いて座っていた。 板橋区はあまり風が吹かないが、9Fともなれば流石に風が音をたてて私たちの間を通り過ぎていった。 シーシャに火を付けると水タバコ特有の臭気がツンと鼻を刺激する。 含み、ふ、と口に出すと鼻と口からゆらゆらと煙が立ち上って、茜空に薄い白色が塗られた。 私の中にある小さな棘が途端に丸みを帯びていくのを感じる。ちょっとずつ、精神が弛緩して、調子が良くなる。 深呼吸すると、ちょっとだけ現実が遠のき、レッドに身体を支配される感覚が戻ってくる。 「アカイ・グランドマスターは…レッド、あんたや。うちやない。」 「一応はデュオユニットって言い張ってる僕の身にもなってほしいんだけど。」 「うちなんもしてないしな。」 「けど君の身体が無いと音楽は作れないし、これは共同作業だよ。」 「あと何回この会話するんやろなぁ…。」 言って、シーシャをまた口に含む。コポコポと鳴る音が子気味良い。 頬を風が凪ぐと、頭までぼぅっとした倦怠感と多幸感が織り交ざったような温かさが昇る。 ああ、やはり生きているのは最高だ。 自分の身体の感覚を十全に味わえるという事の素晴らしさ。 少しぐらい嫌な事や、孤独感を味わっても、臭いや音や景色やそれらをゆっくりと味わい、 私の中に深く咀嚼していくこの感覚は、 日中他の生物に自分の身体を預けている分、尚更格別だ。 マスクを着けている間も、私の意識はある。意識だけがある。 ぼぅっとした宙に浮いている感覚だけあって、視覚以外の情報はシャットアウトされている。 アカイ・グランドマスターが私の身体を動かしている間の彼の視界を、ずっと眺める。 ただ、彼が味わっている物や、身体の感覚や、臭いは感じ取れない。一人称の映画をずっと見ているような感じだ。 それだけが身体を奪われている間の私に与えられた権利だが、 別に面白くも何ともないのですぐ寝てしまう。 なので起きるたびに私の視界に飛び込んでくる景色は様々だ。 一番見るのは自室のデスクトップ画面、次に見るのはレコード屋の中古レコードを漁っている光景、 またある日は芋煮艇で誰かとダイナーで喋っていて、また別の日は…ここより遥か遠い世界で戦っている。 私が起きるたびにレッドは起きた?と聞いてくる。 起きているが、だから何だというのだろう。きっと彼もバツが悪いのだ。 自分が主人公の物語を進めていると、その物語の主人公であったかもしれない人間が定期的に現れるのだ。 だから私もバツが悪い。たまに、なんだか謝りたくなる。 ごめんなさい、私には関係の無い物語に登場しちゃいましたね、と。 「嫌な事考えているな、君?」 「…せやな」 レッドが吐けもしないため息をした気がした。気がするだけだ。 「なぁ君は月に生きているただ一人の人間じゃないんだよ?」 彼の素っ頓狂な例えに、煙が回った脳みそがついていけない。 「どういう事?」 「その全てが自分には関係ないもの…みたいな態度をとっていると、流石に悲しくなるね。」 「言うても、それは皆そうやろ。うちの体奪えても、頭ん中までは分からんし。それは全人類そうやもん。」 「いや他人はともかく、僕らは…いや、それでもいいけどさ。」 ここで、レッドは引いてくれるから、私とレッドはこれまでやって来れている。 なんだかんだで私たちは似た者同士だ、口には絶対に出さないが。 身体を共有しても私たちは別々の存在で、どちらかがどちらかに合わせるとか、協調するとか、そんな物はクソくらえだ。 私たちの間に絆と呼べるようなものがあるとするなら、それは合理性に則った個人主義だ。 だからレッドも「僕らは二人で一人だ」とかその手の事は死んでも言わない。 けれど、だ。 「まぁ…これは僕の押し付けだけど、もうちょい自分の人生を生きようとしろよ。もう僕らは大人なんだしさ。」 「こんなちんちくりんな大人で感謝しとるよ、おかげで長靴下も履ける。」 「…ごめんな、流石に僕も身長を伸ばしたりとかは。」 「ほんまに受け止めんなアホ、冗談。ジョークや。」 「そ、そう?」 私の身体は、歳の割に幼い。生来のものと、10代の殆どをベッドの上ですごしたせいだろう。 だいたい高校生…酷い時には中学生に間違えられる。 もう一度シーシャを吸い込み、私の横で恐縮するガスマスクのいう事を考える。一考の価値があるのは、わたしも分かる。 眼をつむり、自分の中に深く潜ろうとしても、レッドを顔に着けるときのような感覚は全く来ない。 意識ははっきりと、五感を通してその輪郭をくっきりと浮かび上がらせる。 そうか、自分の身体と意識が繋がっているというのは、逆に言うと逃げ場が無いのか。 人は本来現実から逃れるには寝るか死ぬしかないんだった。眼を閉じても現実の色は十分に濃い。 そうすると私の発育不全の身体も、いっぱしに真面目に生きろとでも言っているような感じがあって、 ますます嫌になる。 眼を開くとあたりが薄暗くなっていた。 夜の帳がそこかしこを音もなく覆っていた。夜ならば、ここは私の時間だ。 「…とりあえず出かけるわ。」 「じゃ、僕は少し寝るよ。2日ぐらい。何かあったら起こして。」 「ん。」 と私が返事にもならないような返事をすると、レッドの意識がふと消える。 まるで夜闇に吸い込まれていってしまったようで、急に私は一人だけになってしまった。 シーシャに火を付けて、もう一度深く吸い込んでから私はレッドの名前をもう一度だけ呼んだ。 答えは無くて、私はしみじみとした開放感と、なんだか急に突き放されたような孤独感を両方味わう。 風が私を凪いだ。 ※※※※ 着る物について。 私はストリートブランドを、レッドはスポーツブランドを好む。 私達の…いや、レッドの経済状況的に買えてもミドルブランドが精々で、 2年前に奮発して買ったXLARGEのマウンテンパーカーを私は大事に着ている。 好きなラッパーがMVで着ていたものと同じ黒いマウンテンパーカーはメンズサイズなのもあって、 私の身体にはオーバーサイズだが、悪くない。 インナーにChampionの9ozのトレーナーを着て、 fredperryのショーパンとソックスを履き、undefeatedの5ラインが入ったキャップを被った鏡の中の私は、あまり人好きのする見た目ではない。 何だか黒いし、不愛想が衣を纏ったようだ。頬をつまんでぐっと両手で持ち上げても、不格好な笑顔もどきにしかならなかった。 ちょっと思い付いて、本人が寝ているのを良いことに(といっても、起きてても何とも言わないだろうが)私はレッドの部屋に無造作に吊るされている、 部屋干しされたままの服を物色する。 洗い物は干そうと思えばベランダでも干せるが、DTMに没頭して取り込み忘れが激しいレッドは部屋干しを好む。 いつも履いているadidasのトラックパンツやnikeのナイロンジャケットの中に、あまり着ているのを見ないgolf le fleurの服がいくつかある。 淡い色ばかりを着たがるレッドの服達に原色がまぶしいgolfの服は明らかに場違いだった。 golfなんて着ていただろうか?と思ったけれど、そういえば最近のレッドはブランド考案者のタイラー・ザ・クリエイターの曲をよく口ずさんでいた。 「シーイズマイアースクェイ…」 気が付くと私もちょっとだけ、ワンフレーズだけ歌っている。 壁にかけられたアルバムigorのレコードジャケットに写るタイラーの顔とも目が合った、気がする。 グラミー賞を取るなんて思わなかった顔をしている。私も思わなかったが。 靴について。 私もレッドもNikeの奴隷だった。私はエアジョーダンとエアバラージとヴェイパーマックスに目が無かったが、 レッドはエアマックス全般に目が無かった。 エアマックス1、90、95、97、720、フレア…唯一気にいって無いのが270ぐらいで、 ティンカーハットフィールドがいなければ私たちは2つしか無い足のために同じような靴に散財する事も無かっただろう。 山のように積まれたレコードボックスの横に、更にうず高く積まれたシューズボックスは私たちの宝箱だった。 そんな良いような言い方で片付けていいかも分からないが、とにかく、私は今日も宝箱からとっておきの一足を選ぶ。 これだ、エアバラージローのハイパーブルー。白地に青いAIRの文字がデカデカと入っていて、それが遠目でも人目を惹く。 なぜかバラージは日本で発売しないから、わざわざ個人輸入して購入したもので、 慣れない海外ショップでの購入経験と相まって妙に気に入っていた。 サイドから見た時の白地に青いAIRの三文字は映え、白一色のエアフォースワンよりも清潔感が強い。 黒ずくめの今日のファッションとあわないけれど、履きたい気分だった。 私たちのファッションは思うに、自己の獲得のための一行為だ。 身体の延長線上にある衣服は物言わぬ布ではなく、私たちの人格をくっきりと際立たせるための器である。 玄関前の姿見で再度全身をくまなく見ると、そこには私がいた。私しかいないのだ。 まるで夜闇の底にある余り物のように全身を覆う黒と紺の濃淡こそが私だと安心できる。 レッドもこうしているのだろうか。 私とは正反対の薄いペイルトーンの衣服は影のような私と違って、昼間に出てくる亡霊に見えるだろう。 玄関で靴のかかとを何度か鳴らして、私は家を出た。 扉を開けると薄い青色を引き延ばしたような冷たい空気がわっと私を取り囲んだ。 夜だ。 ※※※※ 渋谷サーカスは数年前から通っているクラブで、外タレDJのブッキング率がやや高目であっても良いクラブだった。 思えば初めてレッドがライブステージをしたのも大阪サーカスだったが、そこと比較すると2フロアある渋谷店は広い。 とはいえハーレムのような大箱と比べたら、雑居ビル特有の長方形の空間はせせこましく感じるだろう。 このぐらいの大きさが丁度いい、必要以上に人がごった返すわけでもなく、音が部屋の隅までいきわたらない事も無いからだ。 1Fのラウンジの隅が私の定位置だった。頭上を水星よろしく公転するミラーボールの光も、部屋の隅は照らさないでいてくれる。 私は陰に身を潜めるようにし、踊ったり会話に励む客達を眺めながら、時たま思い出したように響く低音に揺さぶられるように身体を揺らした。 入場した際に貰ったドリチケで交換したビールはすぐに無くなってしまうので、ちょくちょくアルコール類を購入してはチビチビと舐めた。 時間の経過が早い。 ミニマムハウス特有の繰り返される同じループフレーズとアルコールが私の脳を少しづつ侵食し、 徐々にふわふわした多幸感と驚くほどに怜悧な絶望感がない交ぜになったトランス状態に私を導く。 この瞬間が延々と続けばいい、という気持ちと、早く今日と言う日が終わり全てがお終いになればいいのに、という気持ちが キックとスネアのように頭の中で交互に反復する。 そしてそれらの感情を驚くほどに冷静に見ている私の中にいる私がいる。 なんてことはない。酔っているだけで、すぐにまた不変の日常が私を捕まえるのだ。 生活だ。生活からは、人は逃れることが出来ない。積み重ねた行動こそが自分と言う存在の証左であれば、生活こそ人そのものじゃないか。 急に、トランス状態の思考にそれこそ冷や水を入れるように、先ほど行ったレッドとの会話を思い出した。 ああ、そうだろう、彼の言う通りだ。私は彼に寄生され、生かされている事を理由にして自分の人生を生きる事から逃げているのだ。 自堕落で生産性も無い、何かをじっとやり過ごすような私の絶望的な程に何もない生活。 人が人生で負うようなリスクを免除してもらう代償として、賜るべき大切な何かも全て素通りしてしまっているのだろう。 本当の理由は、自分の過去の事故で家族を失った事でも、本来であれば五体満足に動かせない事でもなく、私はこの空っぽの生活こそが私だとぼんやり思ってしまっている。 これは大層な皮肉だ。以前は、ベッドの上で自由に恋焦がれていたあの頃は、やりたい事もやるべき事もたくさんあったはずだ。 それを叶えられるタイミングになって、私は全てのチャンスを手放している。 私が自堕落で空っぽで、何も無いからだ。だから、自分の身体や時間を別の存在に簡単に渡す事すら出来てしまう。 本来であれば私の人生は私だけの…赤井薫だけの物だった、赤井薫が主役だったのだ。 それが今ではレッドが、アカイ・グランドマスターが私の人生の主役で、私は自分の身体を提供するだけの都合の良い脇役と化し、 あげく甘んじている事に満足してしまっている。 この関係性が歪である事はレッド自身も百も承知だが、そんな事を言わないのが彼の優しさであり、彼が他人として弁えたラインなのは分かっている。 クラブのコインロッカーの中、コートと一緒に詰め込まれたサコッシュの中に押し込められ、身動きひとつしない…いや出来ない彼の事を思う。 彼は私を哀れまない、生かされている事の非対称性を言及しないでくれる。 よく出来たパートナーだ、それに残酷だと感じてしまう自分が嫌になるぐらいには。 無性にシーシャを吸いたくなった。アルコールで誤魔化すためにバーカンに勢いよく詰め寄るとフロアが沸いている。 ステージに上がっている顔を見て、なるほどと納得した。神戸出身の有名音楽プロデューサーだった。 それこそレッドとは知名度の桁が違う。今日一番フロアを客が占領し、小箱特有の酸欠気味になった空気の感覚が伝わってくる。 「朝が来るまで 終わらないダンスを」 客が全員、声をそろえて合唱する。 毎日夜が来るように、朝は必ずいつか来る。終わらないダンスなんて無い事はここにいる私達全員が分かっている。 私だって分かっている。それでも、クラブにいる間は毎晩そう願う。 朝は現実だからだ。目覚め、支度をし、私達は一人一人の現実と戦わなければいけない。 それが生活で人生だから。 私は手の中の、何を注文していたかも分からないアルコールをぐいっと飲み干すと、クラブを出た。 ※※※※ 深夜三時の夜闇の色は濃い。 その中に身を置いている私の色も同様に濃く、黒い。 渋谷サーカスを出ると古代の遺跡のように、古びたビルとビルが私の前後を遮るように聳え立っている。 ビルはまるで数百年も前からそこにあったかのように、酷く古ぼけて、そして他人行儀に見えた。 不思議な雰囲気だ。いつもの道なのに、夜闇が覆うと全く別の、未知の存在と化してしまう。 ジジジ、と私の背後でネオンの看板が音をたてて瞬いた。 暗闇の装甲で覆われたビルがその姿を一瞬だけ、光の下に晒した。 私はサコッシュに手を伸ばす。 もうずっとそこにいるかのように時間感覚が引き延ばされたのはアルコールの酩酊ではない。 閃光が走るかのように頭の中で緊張の糸が引っ張られる。 ジジジ、ともう一度音がした。 暗闇は、ずっと昔からある。朝がいつも来るのと同様に、夜も必ず来る。それは数百、数千年前からのこの世界の理なのだろう。 だから、今こうして私たちの間を横たわる夜闇は現在の物であると同時に、遥か過去の物であった。 私を色んな物から隠すのと同様に、かつてあった、過去の存在も、この夜闇が同じように隠していたのだ。 ジジジ、と。 目の前にあるのは、この世のものではない。現在のものではない。 きっと、かつてあった物で、それは既に役目を終えている。人生の主役を正当に終え、カーテンコールをし、客を帰らせた。 私はガスマスクを取り出した。 不定形の物だ、目の前のそれは全ての物に見える、すべての色に見える。すべての過去に見える。 骸の海からやってきた、一度は既に終わったはずの物だ。 「いくよ。」 「あぁ。」 私の声に、彼が応えた。いつだってそうだ、彼は絶対に応える。きっと役目を終えるその日まで、ずっと私は彼を呼び、彼は私に応える。 私達をつなぐのは利害関係であり、愛憎であり、親しみであり、敵意であり、この世の全ての関係性だ。 それらすべてが私達を縛り付け、蝕んでいる。そうでしか生きられないからだ。 寄生虫を体に宿して免疫を獲得する鳥は、何を考えて飛んでいるのだろう。 マスクを口元にもっていくと、ふ、と自嘲してしまう。 本来であれば私は既に終わった人間だ、それが目の前の存在と戦う道理なんてあるのだろうか。 私には無くても、彼にはあるんだろう。 ここで戦う事を、アカイ・グランドマスターは、猟兵は、世界に求められているから。 いつか朝が来ると。また夜が来るのと同じように。 私は思い付いて、ガスマスクを被る一瞬、意識を失う最中に声を出して呟いた。 「変身。」 するとアカイ・グランドマスターがそこに立っている。 赤井薫は何処にもいない。 了
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