水底に落ちる

作成日時: 2020/04/03 18:52:42
 空が揺れている。
 見上げた青い境界は面が揺蕩うように光を攪拌させ、暗い視界をぼんやりと照らしていた。
 これは、空? いいや、違う。
「水の中」
 光が編み目のように広がって、波のようにひしゃげて常に形を変えていく。金魚鉢に水を溜めて、底から見上げた時はこんな風に見えた。目を焼かれてしまうから止めなさいと止められてしまったけれど、氷とは違う、絶えず変化する滑らかな曲線が面白くて、飽きることなく見ていられそうだった。その時はそれで目が潰れてしまっても構わないや、と返事をしたら取り上げられてしまったけれど。
 それはいつの記憶だっただろう。たしか今よりも幼い――それでも指折り数えれば片手で足りるほどしか春を越していない。無邪気に金魚になって誰かに愛して貰えるのなら幸せだと、そう思って居た頃だ。
 夢想こそすれ、自分は水に沈んだことなど無かったはずだ。外に出ることがなかった悠里は、水たまりすら知らなかった。空想にしては鮮明すぎるこの夢は、一体どこから来たのだろう。何故この光景を知っているのだろう。
 そういえば、最近読んだ小説の挿絵に海の底についての描写があったはずだ。それが面白くてつい図鑑や写真集などを捲って読み込んでしまっていた。写真や絵で見たからだろうか、それに強く惹かれてしまったせいで、この様な夢まで見ているのだろうか。
 それとも、自分はひとなのだろうか。ひとだと思い込んでいる魚の夢を見ているのではないだろうか。
「ゆめ」
 呟いた言葉は文字としての輪郭を僅かばかり保った後、泡となってゆらゆらと水面目指して登っていく。視線だけでそれを追いかけていくと、水面にぶつかって弾けて消えてしまう。きっと吐き出した言葉の分だけ、夢を見ている悠里は覚醒へと近づいていくのだろう。体に溜め込んだ空気を言葉と共に吐き出して、上を目指していけば悠里が生きる世界に戻っていく、不確かなものばかりの世界でそれだけは確信していた。
 青い世界、沈む体。
 重力から水圧へ、弛緩した体を投げ出してしまえる心地よさのままに思考を放棄していく。
 そうだ、たしか。小説の中では海の底で誰かが待っているのだ。水難事故で死んだ愛おしい人、彼らが主人公を手招いて呼んでいた。
 おいで、おいで。溶けて、消えて――潰えて、弾ける。
 羨ましい。私は一度だって呼ばれたことがなかったから、そんな風に呼んでくれるだなんてなんて幸福なんだろうと
「夢にまで見るなんて、よっぽど羨ましかったのでしょうね」
 眩しい光、鮮やかな青。全てが網膜を刺すように煌びやかな光を纏って、世界は今日も輝いている。
 嫌だなあ、と思った。
 闇に慣れすぎた眼には僅かな光が眩しすぎるように、今の悠里にとって光とは心地好いものでは無く攻撃的な痛みであった。
 生きる上でひとは刺激を受けざるを得ない。刺激の受容体が痛みを受け取った時、その負荷の具合で快感にも苦痛にも変わっていく。視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚。それらを引き出すのはすべて痛みだ。
 それら全てが煩わしいと思う。
『なら、それを私にくれる?』
 自らのうちへと問いかけていたはずの言葉に、甘く囁く少女の声が聞こえた。
「あげるなどと、思っているのですか」
 水底から聞こえる声に視線を向けることなく、睥睨したまま青い瞳は水面を見つめる。視界の中に薄紅色の花弁が一枚映り込み、悠里の脇をすり抜けて先に沈んでいった。それを黒い蝶が細い脚を伸ばして絡め取り、むしゃむしゃと食べてしまう。そして蛹が蝶へと変わるように、蝶は少女へと姿を変える。
『いいえ。だってあなたは簡単には渡してくれないもの』
 愛らしい笑みを湛えたまま、だから今は我慢の時ね、と鈴を転がすような声で笑うのだ。
『だけど辛い時は話し相手になりたいわ。愛しい人が苦しんでいるのを見て黙っているほど、私はお淑やかじゃないもの』
「ええ、そうでしょうね」
『よく知っているのね。でも、それくらいしないとあなたはすぐに死んでしまうから』
「それはどうして」
『私はあなたの知らないことを知っているわ。何度も何度も同じ事の繰り返し、飽きてしまったわ。偶には意趣を返して、違う未来を歩んでもいいでしょう』
「だからといって、私はあなたの行いは間違いだと信じています」
『正しい、間違いで物事を判断するべきではないわ。特にこの問いの答えは、そんな単純な言葉で足りるものじゃ無いもの。わかっていて?」
 青の世界に、赤が混じる。二色は混ざり合うことなく黒い影となって、徐々に光を奪っていく。煩わしそうにそれらを見下ろした少女は悠里と影との間に割って入るようにそうっと手を伸ばすと、険しい表情を崩さない頬に触れた。
『あなたは盲目ね、悠里。世界の全ては自分が正しいと信じているの。信じられる他人がいなかったのは悲劇だけれど、それだけじゃない。あなたがこうなってしまったこと、そして今も囚われ続けていることが悲劇に他ならない』
「あなたはそうやって決めつけるのが好きですね」
『ええ、好きよ。だってあなたのことだもの。あなたの全ては私を救うの、だから私はあなたを救うと決めたのよ』
「――それで、そんな理由で!」
 水底を振り返り、とうとう悠里はそれを見た。
『どんなことをしても、悠里は私のことを愛しているでしょう?』
 墨色の髪を揺らめかせ、爛々と輝く桜色が悠里を深淵から見返していた。ひっ、と引きつるような悲鳴を上げて思わず目を覆う。なのに瞬きを忘れたように、目蓋は世界を閉ざしてくれない。
『あなたは許したいのではないわ、悠里。許してしまえば、私が人を殺めた事を肯定してしまうもの』
「違う、そんな理由では」
『そうかしら? でもあなたはその罪を背負うといいながら、ずっと認めてはいないもの』
 愛おしげに微笑みを向けながら、震える細い身体を白い腕が抱きしめる。
『ねえ、愚かで愛おしい、可愛い悠里。五月蠅い影達すらあなたを脅かすことがないように、私が護ってみせるから』
「そんな」
『怖がらなくてもいいのよ。何事にも痛みは付き物だから、これくらいあの時に比べればどうってことない』
 あの時、と聞いて悠里の体が恐怖で跳ね上がった。
『痛かったわ、死んでしまうと即座に感じたほどに。でも何よりもあなたを護れた喜びで私は満ち足りたの、あなたが痛みを感じれば感じるほど、私はきっとあなたを護れて良かったと思うもの』
 それに気づいていながらも、少女は語りかけるのを止めなかった。
『あなたの苦悩、痛みはわたしも辛いわ。でも生きていなければ感じられないものを、あなたは持っている』
 それにね、と優しく髪を撫でながらあやすように少女は言った。
『だから、私はあなたの存在ごと食らってしまいたいの。あなたの痛みを食らって、わたしは生きるのよ』
 はっと顔を上げた悠里は、慈母のように微笑む少女の顔を見て言葉にならない叫び声を上げた。衝動のまま少女の体を突き飛ばし、影の手に引かれるまま水底へと落ちていく。
 その手が首に巻き付き息を奪っていく。呼吸がままならない苦しみに藻掻いても、容赦なく締め上げる。意識が薄らぎ遠のく中、鈍色の光が一条差したのを見た。
『その子はあげない、私のよ』
 首を圧迫していたそれらが解け、肺が空気を求めて一気に拡張する。悲鳴を上げる体が痛い。落ちていく意識に抗う術はなく、視界は真っ暗で何も見えない。
『また、ね』
 微かに聞こえたその声を最後に、悠里は現実の世界へと墜落した。
基本情報
更新履歴
情報
作成日時:
2020/04/02 22:59:55
最終更新日時:
2020/04/03 18:52:42
記述種類:
標準

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2020/04/02 22:59:55 差分